Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

忙しい人ほど勉強の復習を欠かすべきでない

 読んでくださっている方、こんにちは。

 今日は「勉強の復習」について書きたいと思います。

 皆さんは、勉強をする時に復習を重視するタイプですか?それとも早く進んだ内容を学びたいと思うタイプですか?

 

 自分は大学生で、今のコロナ禍のオンライン授業で教えられている内容の理解に遅れをとっているので、より進んだ内容を学びたい反面、復習の大切さを再確認しているという感じです。(これがこの日記を書きたいと思った主な動機です)

 

 さて、本題である「忙しい人ほど勉強の復習を欠かすべきでない」ということについての根拠なのですが、その根拠は、私たちが学ぶ対象である講義や教科書の内容は基本的に以前の内容を元にして進められるので、以前の内容の理解、使われている用語の定義などの基礎知識の理解が曖昧だと進んだ内容を理解することが難しくなるからです。

 

 例えば、新しく学ぶ内容に「Aが〜によって、Bである」という文章がある時、Aの定義の理解があやふやだとその文章を理解することが難しくなるでしょう。

 

 言い方を変えれば、復習は「新しい内容を身近なものにする準備」とも言えるかもしれません。 復習をすることによって新しく学ぶ内容を身近なものにすることができれば、自然の形で学び進めることができて、分からないところを調べながら勉強するより遥かに効率的だと思います。個人的には、目から鼻が抜けるように新しい事柄を学ぶことができるような人は(もちろん、単純な思考力もあると思いますが)このような基礎知識の習得をしっかりとやっている人だと思います。

 

 このように、もちろん、教科書や講義の内容に論理的な飛躍があったりすることはあり、その行間を埋めることが難しいというケースもありますが、以前の内容の基礎知識をしっかりと理解することが新しく学ぶ内容を難しくしすぎないために大切なことなので、忙しい人ほど復習を欠かすべきでないと思います。

 

 

 

 

何のために勉強しているかがわからない時があってもいい

 読んでくださっている方、こんにちは。

 資格を取ったり、新しいノウハウや考え方、技術を身につけるために勉強する習慣は、社会的関心がある人は生涯失いたくないものの一つであると思いますが、私は「この勉強はやる意味があるのかな?」とか「もっと役に立つ勉強はあるのではないか?」などと考えすぎて、勉強そのものを放り出してしまう時があります。そのような問題を解決するために必要な考え方を見つけたので、書きたいと思います。

 

 それは、「勉強する習慣、能力を失わないために勉強する」ということです。

 そのように考えると良い理由は、「将来的に必ず役に立つと確信できる」勉強をいつもすることは必ずしも簡単ではなく、「勉強が将来的に実用的であるかがわからなくても、「勉強する能力」を失わないようにするために、勉強することが大切になってくるからです。

 

 もちろん、社会的な目的を持って、勉強することは重要ですが、私が言いたいことは、勉強する習慣を失わないように勉強することも立派な社会的目的であるということです。なぜなら、そこで勉強したことを社会的に役に立たせられるかもしれないし、少なくとも、何かを学ぶ必要ができた時に同じように学べるからです。

 

 これは、読書や運動についても言えることかもしれません。読書において読んだ内容が全て役に立つ保証がなくとも、読むことは大切ですし、運動において、全ての運動が健康に寄与しなくても、運動することは大切です。読む力、運動能力を失うべきではないからです。

 

 このように、時に勉強(や読書、運動)が「役に立つかわからない」と思うことはあるかもしれませんが、それをする能力を失わないようにすることを目的にすることができれば、学ぶ能力を失わずに前に進むことができます。

 

 読んでくれて、ありがとうございます。

社会的な関心を持っている人は能力が上がり続ける

読んでくださっている方、こんにちは。

前回の記事で書いたことで、社会的な関心を持っていると楽ができるということがありましたが、社会的な関心を持っているとさらに常に能力の向上のために努力ができるということを書きたいと思います。

 

 社会的関心を持っていると能力向上のための努力を向上できるということの理由は、社会が常に完全でないが故に、常に自分の能力を超える社会的課題を見つけることができるからです。

 例えば、仕事において、社会的な関心がなければ、他人より勝ることにしか関心がない人は、競争相手よりも能力があると思えたら努力をやめてしまうのに対し、社会的関心がある人はどれだけ他人より能力が上回っていると感じようと、常に自分の能力以上のことが求められる社会的な課題を見つけることができるので、それを解決するために努力を惜しむことはないでしょう。

 

 それは実際に社会に貢献しているとははっきりとは言い難い学生についても同様です。つまり、周りの人に偏差値で勝ることにしか関心がない学生は、それを達成できたと思ったら、努力をやめてしまうけれど、社会的課題を解決するための準備として勉強をしている学生は、努力を止めることがないと思います。

 

 このように、社会的な関心があるならば、常に自分の能力値以上を解決のために求めるような社会的課題があるので、努力をやめるという選択肢がなくなります。

 いつも読んでくださり、ありがとうございます。

 

 

研究者になれる自信がなくとも、自主的な勉強を継続する方法

 積極的に学ぶ姿勢がある大学生、大学院生などに限った話かもしれないが、自分自身の将来を見据えて、研究者になるために本当に学問に打ち込むことだけに集中して良いのか、それとも、研究者になることが難しかった時に備えて、他の仕事を得る訓練をするべきなのかを迷う人たちはいるかもしれない。

 自分もその一人だった。数学科の学生として数学に真面目に向き合っているつもりではあるが、研究者になるための困難を考えると二の足を踏みそうになっていたとともに、ためらいがあっては到底達成できない目標であるが故に、「数学に渾身するか」、「数学の勉強を(大学卒業のために)最低限やるか」で揺れてしまっていた。

 つまり、数学を「数学者になるための準備」と捉えるのか「大学卒業のための雑務」と捉えるのかで揺れてしまっていた。

 そして、そのどちらも数学に対する「素晴らしい解釈」であるとは言えなかった。なぜなら、前者は数学者になれなかった場合の不安に立ち向かわねばならないし、後者は皮肉だが数学の勉強を積極的に学ぶ姿勢を失わせるので、大学卒業も危ぶまれるからだ。

 では、都合よく、「数学者以外の職業を選ぶ余裕が生まれ」、「主体的に数学を勉強する姿勢も取り戻せる」ような数学への「解釈」は存在するのか?

 結論を言えば、存在した。それは数学を「趣味」にすることである。

 趣味とは「専門ではないが、楽しみにすること」なので、数学者になれなかった時に方向転換を考えることができるし、楽しみにすることなので、主体性も失わずに済むからだ。

 

 これは他の学問についても同様ではないだろうか。つまり、どんな学問であれ、真剣に打ち込む学生が「研究者になれる確信」を持っているかと言えば、むしろ、そのような自信を持っている人は少ないだろうし、しかし、そこでその学問への情熱を失いすぎるのも良くないという時に、その学問を自らの「趣味」にすることは非常に現実的かつ建設的な方向であると思う。運よく趣味が仕事になる人もいれば、趣味を楽しみに他の仕事をしている人もいるのだから。

 このような一種のジレンマに陥れば時間を無駄にしてしまう。研究者になれる自信がないのは当たり前で、勉強への情熱も失いたくないならば、「趣味」にしてしまうのが一つの解決だと思う。

 

 

 

写経による勉強の注意点

 読んでくださっている方、こんにちは。自分は数学科の数学が好きな学生なので、(自分には)難しめの教科書を少しずつ読むということが非常に大切なことなのですが、その読むという過程において理解をしっかりと疎かにしないために、写経、つまり、教科書の内容をノートに写すということが役に立つと思っているのですが、そこにおいて、非常に注意しなければいけないところを自戒の念を込めて書きたいと思います。

 その写経による教科書の勉強において非常に注意しなければならないと自分が思っていることは、「教科書を見ながら、書かない」ということです。

 その理由は、教科書を見ながら書くと、単に記号の羅列をノートに写しているだけで、あとで何も見ないでその内容を再現することが非常に困難になるからです。

 それは単純に理解と表現は表裏一体で、表現の質を下げれば理解の質も下がるからです。

 

 そのような意味では、理想的な勉強法は教科書を読んで、その内容を教科書を持たずに説明するというものなのですが、それだと教科書を読んでいる途中で多くの場合、頭がパンクしてしまうでしょう。つまり、自分自身がどこまで説明できて、できないのかが曖昧になって、わかっていないのにわかった気になったりしやすくなるということです。

 それ防ぐために、一定の区切りをつけて、教科書の内容をノートに移す写経が役に立つとは思いますが、上のように、記号の羅列を写すだけでは、理解は身につかないので、

読む→短い文章でもそれを書けそうに(説明できそうに)なったら、ノートに書く→読む->...

というサイクルを何も見ないで書くということを重視してやるといいと思います。(本質的に重要なのはこのサイクルを繰り返すことではなく、表現によって理解の確認をすることですが、このような方法は個人的にわかりやすく思います)

 このように、写経には集中力を途切れさせにくいというメリットはありますが、やもすると理解があやふやになる要因にもなるので、必ず何も見ないで書くというステップを入れる必要が不可欠であると思います。

 

 

真の快楽主義者は社会的な関心を持っている

 「快楽を求めるのは良くない。苦労こそ美徳だ」

とか「苦労は買ってでもしろ」

とか「楽な方を選ぶな」

とよく言われますが、自分はこの言い方は金言としては正しいけれど、誤解を招くと思っています。

 なぜなら、その言い方はあたかも、(社会的に)素晴らしい人生を送ると楽ができないように誤解させるからです。

 

 何が言いたいかと言うと、自分の理想論としては、個人の社会的貢献は「正しいから、きついけどやる」ものではなく、「正しいかどうか以前に楽しいからやる」ものであると考えるべきであると思っています。

 その理由は、「正しさ」についての金言は本当に苦しんでいる人に対しては何の役にも立たないことがあるからです。

 

 例えば、いじめにあったり、虐待されたりと自分が泣いて悲しむのを他者に爆笑され続けてきたような人が反社会的な思想を持っても誰も驚きませんが、彼らに「それは正しくないよ」と伝えてあげたところで何の効果もありはしない、ただの苦しみを知らない人の、自分は正しいと言いたい人の戯言にしか聞けないでしょう。

 なぜなら、彼らは社会的に有益な方向、正しい方向にすすべきであることは百も承知で、「自分を攻撃してきた他者に関心を持って貢献すること」が非常に困難であると言うことが本当の問題であると認識しているからです。

 

 つまり、甘やかされたり、ネグレクトを受けたり、肉体的な障害があったりと、他者への関心を持つことが比較的困難な人たちが「正しさ」を求めて社会的に無益な方向から、社会的に有益な方向に進み直すことは無理で、そういう人たちに「正しさ」について説教しても意味がありません。

 したがって、本当に困難な状況において身を助くのは、楽を否定して正しさを求める考え方ではなく、正しさを否定して楽を求める考え方です。

 

 では、本当に困難な状況に置かれた時に、社会的に無益な方向に向かわないようにするためには、社会的に有益なことをすること、つまり、社会貢献することが「楽」であるということを理解する必要があるということがわかるので、それを考えたいと思います。

 

 社会的関心を持つと楽になるという考えは次のように論理で正当化できます。

 

個人が社会的関心を持つ

社会的関心を持っていない時に比べて、社会的でない、つまり、利己的な自分自身の感覚への関心が減る

個人的な感覚への関心が減るので、個人的な快楽も減るけれど、苦痛も減る。

したがって、社会的関心を持って行動すれば、社会的環境は向上するので、個人的な苦痛を減らしながら、社会的な快楽を感じる

 

これをまとめれば、社会的関心をもてば、楽に生きれるということになる。

「苦労は買ってでもしろ」とかいう言葉は個人的な快楽を減らす目的で言われることだと思うのですが、前述のように、本当に苦しんでいる人に苦労や正しさを求めるのは無意味なので、より汎用性があって役立つ考え方は、社会的関心をもてば楽に生きられるというものだと思っています。

 

 

 

自分がしたいことと他者全体が自分に望むことの共通部分

読んでくださっている方、こんにちは。

前回の記事で他者との積極的な良好な関わりをなくしては、個人の健康を維持することができないということを書いてみましたが、他方で、「他者全体が自分に望む」ことばかりを強調して、「自分がしたい」ことを蔑ろにしすぎると不健康になりやすいということを書きたいと思います。

 

 なぜ、「他者全体が望むこと」をしていても不十分なのか?それは、自分自身も社会の構成員であり、有益な社会的な協同を実現するためには、他者のことだけでなく、自分のことも尊重しなければならないからです。

 

 「他者のために自分を犠牲にしてしまっている」という感覚は、自分にとっても、他者にとっても不幸なモノです。なぜなら、自分は自分の自由を感じられないし、他者も、その人の不幸の責任を感じやすいからです。

 

 個人的な結論は、社会的に健康かつ、有益な方向に生きるためには、「自分がしたいこと」と「他者全体が自分に望むこと」の共通部分の中で生きることが大事なんだと思っています。

 

 短いですが読んでくださり、ありがとう