Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

何のために勉強しているかがわからない時があってもいい

 読んでくださっている方、こんにちは。

 資格を取ったり、新しいノウハウや考え方、技術を身につけるために勉強する習慣は、社会的関心がある人は生涯失いたくないものの一つであると思いますが、私は「この勉強はやる意味があるのかな?」とか「もっと役に立つ勉強はあるのではないか?」などと考えすぎて、勉強そのものを放り出してしまう時があります。そのような問題を解決するために必要な考え方を見つけたので、書きたいと思います。

 

 それは、「勉強する習慣、能力を失わないために勉強する」ということです。

 そのように考えると良い理由は、「将来的に必ず役に立つと確信できる」勉強をいつもすることは必ずしも簡単ではなく、「勉強が将来的に実用的であるかがわからなくても、「勉強する能力」を失わないようにするために、勉強することが大切になってくるからです。

 

 もちろん、社会的な目的を持って、勉強することは重要ですが、私が言いたいことは、勉強する習慣を失わないように勉強することも立派な社会的目的であるということです。なぜなら、そこで勉強したことを社会的に役に立たせられるかもしれないし、少なくとも、何かを学ぶ必要ができた時に同じように学べるからです。

 

 これは、読書や運動についても言えることかもしれません。読書において読んだ内容が全て役に立つ保証がなくとも、読むことは大切ですし、運動において、全ての運動が健康に寄与しなくても、運動することは大切です。読む力、運動能力を失うべきではないからです。

 

 このように、時に勉強(や読書、運動)が「役に立つかわからない」と思うことはあるかもしれませんが、それをする能力を失わないようにすることを目的にすることができれば、学ぶ能力を失わずに前に進むことができます。

 

 読んでくれて、ありがとうございます。