Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

人生の苦しみは避けられない 問題は共感能力

 

 私は人生には苦しみは必ず存在すると思います。その理由は生きている限り予測不可能な事態に陥ることがあり、そこで自分の能力値以上のことをしなければいけなくなることがあるからです。

 

 例えば、毎日のように満員電車で通勤する中で突然、痴漢の犯人に誤解されて訴訟されるかもしれません。そのような予測不可能な事態では、冤罪を晴らす能力を鍛えていなければ、きっと辛いものになるでしょう。

 

 また、他人に嫌われる経験をしたことがない人はもしかすれば、他人に嫌われた時に対処する能力を鍛えていない確率が高いので、そのような時に苦しんでしまう確率も高いと思います。

 

 ともかく、普段、運動不足の人が突然、全力で走ったら苦しいことと同様に、普段鍛えていない能力を突然、使う必要のある状況では苦しいのは当たり前なことです。そして、未来を完全に予測することが不可能である故に、自分の能力値以上のことを求められる環境に立たされることは避けようがありません。つまり、人生に苦しみはなくすことはできないのです。

 

 しかし、人生は予測不可能な未来に翻弄されるだけのものなのでしょうか。

 

 自分はその苦しみの度合いを低くすることは可能であると考えています。

 

 その方法は「他人への共感能力」を鍛えることです。

 

 その理由を説明させてください。

 私たち人間は社会的な生き物なので、能力値以上のことを求める環境というものはやはり社会的な環境です。そういう意味で、能力値以上のことを要求する環境は社会そのもので、その要求はつまるところ他人を満足させるためのものなので、

皮肉なようですが、能力値以上のことを要求されるときの苦しみと他人の満足は両立してしまいます。

しかし、そこで私たちが十分な共感能力を鍛えることができていれば、他人の満足感に、自分自身も満足することができます。

 それは苦しみの度合いを減らせるということだと思います。

 

 例えば、

 

 好きな人のために雑用をすることは楽しくても、嫌いな人のために雑用をすることは辛いでしょう。それは好きな人には共感しやすいのに対し、嫌いな人には共感しにくいからです。

(そういう意味で、学生の自分が日々、細々とした課題や勉強を苦にせずにこなしていくためには、そのような課題を出してくる先生方に対して、共感を少しだけでもすることは大切だと思っています。共感しなくてもいい他者などいません。)

 

 このように、十分な共感能力さえあれば、予測不可能な能力値以上のことを要求される社会でも、苦しみだけでない、満足も感じて生きることができます。

 

 では、共感能力はどのように鍛えればいいのでしょうか。

 結局、自分の行動によって、他人がより楽しく、幸せに生きられるということを前提にして生きることが大切なのではないかと思います。なぜなら、苦しんでいる相手に共感し続けることは誰にとっても簡単なことではないからです。それは当たり前なことだと思います。

 

 しかし、もっと特別な経験をした人、例えば、学校でいじめにあったり、親に虐待を受けるなどといった極端な経験を持っている人は、共感能力を発達させることについて、特に大きな困難を持っていると思います。

 

なぜなら、「他人は自分に共感してくれない。それなのに、なぜ、自分は他人に共感しなければならないか。」と考えるからです。このように考えることは自然だと思いますが、共感能力が社会的に生きるために不可欠であることから、彼らは社会適合に大きな障害を持ってしまうことになります。

 

では、このような極端な被害を被った人々は共感能力を発達させることができず、ただ社会に馴染めずに不幸な人生を送るしかないのでしょうか?

 

 自分ははっきり「NO」と言うことができます。なぜなら、自分も親から教育的虐待を受け、何年もその経験を思い出しては、対人関係に大きなためらいを持つようになってしまっていたという過去を持っていますが、そのトラウマを克服できたからです。

 

 ではトラウマを克服するために必要なものは何か。

 それは「加害者の背景の理解」です。

 

 ここで言う、加害者の背景とは、「加害者がその時に何を考えていたか」とか「その時の状況は特殊だった」とか、そういうものではありません。

 

 加害者がどのように「共感能力を失ってきたか」を理解することです。

 

 加害者は生まれてから、ずっと共感能力を持たなかったわけではありません。私がそう言う風に考える理由は、生まれつき、共感能力が欠如している人はサイコパス と呼ばれたりしますが、サイコパス と呼ばれるような、およそ共感能力の残滓すら持っていないだろうと思えるような犯行に及んだ犯罪者たちでさえ、その幼少期を鑑みれば、共感能力の発達が妨げられても致し方ないと思えるような環境で育ってきた人々であることがわかるからです。

 

 例えば、

ja.wikipedia.org

 や

ja.wikipedia.org

がわかりやすい例であると思います。

 

 彼らでさえ、彼らを虐待した親が共感する能力を失ってきたこと、そしてその過程を理解することができていれば、ここまで社会性を失ってしまうことはなかったと思います。

 

 結局、まとめると、自分の言いたいことは2つだけです。

 

  • 人間は社会的な状況に生きなければならないから、社会適合に必要な、他者に共感する能力を発達させ続けなければならない。
  • 自身の共感能力の発達は、その能力が欠如している他者によって、妨げられる。しかし、その障害、あるいはトラウマは、「他者が共感能力を失ってきた過程」を理解することによって、乗り越えられる。