Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

誰かのために死のうとしている人々へ

特定の人のために生きることは、自分の人生がその人の思い通りに支配されているようで辛いものだ。そして、どんなに役立つものも他人との関わりのなかにあるから、特定の人のために生きることは自分の有益な活動範囲を大きく制限する。だからこそ、辛いだけでなく無益でもある。

 

しかし、私たちがその特定の人だけでなく、もっと広く関心を広げてみたらどうだろうか?

 

つまり、「誰かのために生きる」ということを変える必要はないので、その「誰か」をもっと広いものにしてみるのである。あなたが親のために生きようとして辛く、そして役に立つことが出来なくなっているならば、親への関心を無くす必要はないから、親以外の人々に目を向けてみればどうだろうか。たとえば、友人や親戚、学校や塾の先生、近所の住人、まだ見ぬ社会の人々のことを考えてみればどうだろう。

特定の人のために生きるだけでもこんなに辛いのに、もっと関心を広げて、他者全体のために生きる心の余裕などないと思うかもしれない。でも、少し待って欲しい。

あなたは誰かのために生きる能力を持っている。

あなたが辛く、苦しんでいるのはあなたの他人を思いやる能力が無いからじゃない。

あなたが思いやる対象が制限されてしまっていることが問題なのだ。

あなたがもし特定の人々から関心を広げ、思いやることができれば、あなたの行動は自然と他者と関わりやすいものになっていくだろう。それはつまり、あなたの人生が有益で、実りあるものになっていくことを意味する。

あなたが他者全体に関心を広げようとすれば、その特定の人々はあなたが関心を広げることを恐れ、あなたを再び依存させようと行動するかもしれない。その誘惑は一時、魅力的に見えるかもしれない。しかし、すでにあなたは他の人々の福利に広く関心を持っている。

社会的な行動をしようとすれば、時に壁にぶつかり、元の狭い世界に戻りたくなることもあるだろう。しかし、あなたの思いやり、他者全体への配慮はその壁を乗り越えるための困難を凌駕する。そこには特定の人々への依存や支配、競争などはない。ただただ、自分自身との戦いがあるのみである。

時に誰かと比べられ、自分自身の努力が空虚なものに見えることがあるかもしれない。それでもあなたは他者全体の幸福を思いやっている。

時に特定の人々からの理不尽な攻撃を思い返し、復讐の念に取り憑かれてしまうこともあるかもしれない。それでもあなたは他者全体を、その特定の人々以外のことをも思いやっている。そして、特定の人々を攻撃してしまう人々とその無意味さを憐み、彼らと自分自身の弱さを重ねるだろう。

時にあなたは他者全体を思いやることが完璧にできていると思うかもしれない。しかし、社会の完璧な福利などあり得ない。だからこそ、あなたは自惚れたり、偉ぶったりすることなく、他者全体のために有益な努力を継続する勇気を持つ。

時に大切な人々を突然失い、絶望の淵に立たされることもあるだろう。それでもあなたは他者全体に関心を持っている。あなたは失った人々を悼む気持ちを胸にひめ、同時に残っている希望に目を向けて励ますだろう。

時に貧富の差や運命に翻弄され、他者全体への思いやりなど意味のないものに思えることがあるかもしれない。それでもあなたは他者全体の幸福に関心を持っている。語り継がれた偉人たちが財産や運否天賦にたよってきたわけでないことをあなたは知っている。

時に、他者への思いやりや配慮などを持たずに成功している人々のことを見つけるかもしれない。それでも、あなたは他者全体の幸福に関心を持っている。そして、真の成功は誰かを犠牲にしてなされるものでないことをあなたは知っている。

時に感情ではどうにもならないほどに追い詰められることがあるかもしれない。それでもあなたの理性はあらゆる意味が私的なものでなく、社会的なものであり、生きる意味も例に漏れず、他者全体のために意味があるものでなければならないことを理解している。

 人生は苦痛にも快楽にも満ちている。しかし、あなたが他者全体が望む形で苦しみ、快楽を感じれば、あなたの人生は実り多く、あなたの居場所がなくなることはない。その過程は死ぬまで続くが、あなたが少しでも寄与した他者全体の福利はあなたが死んでも消滅することはない。

 

読んでくださり、ありがとう。