Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

社会的な尺度に照らして、自分自身を評価しよう

社会的な尺度で自分自身を評価しよう

 

常に有益に、ポジティブに生きる為にはどのようなことを心がければいいか?

 このような問いは非常に古い歴史を持ち、しばしば強調されすぎたり、無視されてきたりしただろうが、人間が完全に唯物的ではなく、精神的な生き物でもあることから、私たちの建設的な生活を支える精神的な態度について考察することは大きな意味があると思う。ここで、私は人間がその不完全性ゆえに社会的であるという普遍的な事実を基本として、その問いの答えを考えてみたい。それは、あらゆる意味は他者と共有することができて意味を持つことから、他者と共有できる、社会的な、つまり、普遍的な物事に基づいて導出した結論でなければ意味がないからである。

 

 まず、人間が社会的な存在であるということの本質は「人間にとってのあらゆる意味が社会的なものである」という点にあると思う。その理由は、心理学者のアルフレッド・アドラー

{「木」は「人間と関係がある木」を意味しているし、「石」は「それが人類の生活における一因子であり得る限りの石」を意味している。仮にある人が意味から逃れ、彼自身をただ事実にのみ専念させようとしてしまえば、彼はたいへん不幸になるであろう。}

と述べているように、あらゆる意味は、他者と共有されるためにあることから私的なものではありえないからである。

例えば、私たちが眠い時に「暑い」、暑いときに「眠い」と他者に伝えたとしても、それは社会的な意味と合致しないことから全く無意味なものになってしまうだろうし、私たちが良かれと思って、他者に何かを与えたとしても、社会的な尺度に照らして、それが良くないものであるならば、私たちがいかにそれが良いものであると信じていようと、それは良くないものになるのである。

 

 よって、私たちが「常に有益に、ポジティブに生きる為にはどのようなことを心がければいいか?」という問いに対して、意味のある答えを導きたいならば、その問いを社会的に解釈する必要があることは言うまでもない。たとえば、「有益に」という言葉は社会、他者にとって「有益」であるということを意味しているし、「ポジティブに」という言葉も社会、他者にとって、正当に「ポジティブ」であると解釈されるような意味を持っている。そして、私たちは常に自分自身の暗黙の「有益さ」に対する解釈に基づいて行動しているだろうから、私たちの上の問いに対する答えは、「社会的な尺度を持つこと」と言えるだろう。

例えば、犯罪者や神経症の人々の行動が彼らのためにも他の人のためにもならないのは、彼らが「有益である」と暗黙に信じて行っている行為が社会的な尺度に照らせば「有益でない」からだ。言い換えれば、彼らが有益にポジティブに生きることができるのは、彼らの「有益さ」に対する私的な解釈が社会的なものに近づくときであるといえる。

 このように、私たちが有益に、ポジティブに生きることができるようにするためには、社会的な尺度に照らして、あらゆることを解釈するようにすればいい。特に、どのような苦境に自分自身が立たされていようと、どのような失敗を自分自身がしたとしても、どのような評価を他者から受けようと、どれだけ他者に、自身と兄弟、姉妹、同年代の人々などと比較されようと、「自分自身」を社会的な尺度をもって解釈することができれば、社会は常に、あらゆる類の協同的な構成員を必要としていることから、自分自身にとって「自分自身」は不幸な人でもなく、失敗者でもなく、負け組でもなく、敗者でもなく、「有益な可能性」となる。

 

読んでくれて、ありがとう。