Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

常識に染まれば染まるほど、自由になれる

常識に染まれば染まるほど、自由になれる

 

 私は私たちが有益な社会生活を送るために、自分自身の創造的なアイデアを実現させることや見知らぬ他者に友好的にアプローチし、有益な協同関係を構築させることなどに出来るだけ躊躇いを持たないことが非常に大切であると確信するが、そのような有益な「自由」を獲得するために最も効果的な手段は「常識に染まること」であると思う。

 

まず、誤解を生まないために、私が用いている「常識」という言葉の意味についての説明を読んでいただきたい。しばしば、自分自身の理性に基づかない「無理がある」思想を他者に押し付けるために「常識で考えろ」などと言う人々がいるが、私が用いている「常識」という用語の意味はそのようなものではなく、私的でない、つまり、「共通の思考方式である論理に基づいた考え」で、極端に言えば、大多数の人々がナチズムのような論理に基づかない思想を持っている間に、少数の人々が理性的、論理的な思想を持っているならば、私が用いている「常識」は後者の小数の人々が持つ思想を指すということである。つまり、私が用いている「常識」というものは押し付けられるものではありえず、共通の思考方式の論理によって、理性的に共有されなければならないものであるということを強調したいのである。

 

 そして、このような意味における「常識」に染まれば、他者に有益なアプローチをすることに躊躇いが生じなくなり、役立つ方法で「自由」になれるということは明白であると思う。なぜなら、「常識」とは他者と共有できるものに他ならないから、常識に染まれば染まるほど、常識に縛られれば縛られるほど、自分自身のあらゆる表現が「私は他者と和解する能力がある」ということの意思表示になるからだ。

 

 例えば、ある二人の人々、Aさん、Bさんがいて、Aさんは身だしなみに無頓着であることが「自由」であると主張し、逆に、Bさんは身だしなみに気を付けることが「自由」であると主張しているとしよう。ここで、私たちは身だしなみに気を付けることが衛生上の観点などから、論理的に有益であること、いいかえれば、「身だしなみに気を付けるべきである」ということが常識であることを容易に理解できることから、Bさんの自由こそが、有益な自由であるということを理解できる。なぜなら、Bさんは常識に染まることによって、「私は他者と和解する能力がある」ということを示すことができているので、Aさんよりも他者に協同的なアプローチをすることに躊躇いの精神を持ちにくいからだ。

 

 このように、「常識に縛られる」ということは一見、不自由なように見えるが、その常識が論理に基づくものである限り、「私は他者と和解する能力がある」ということを示すことに他ならないため、逆説的ではあるが、私たちの人生から無益なためらいを追い払い、私たちが自由に生きることを助けるのである。

読んでくれて、ありがとう。