Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

「具体的な問い」を持つのをやめたら、試合終了

 自分は都内大学の数学科の学部2年の学生で、大学に入学することの主な動機が数学を学ぶことだったので、1年の時は割とよく勉強したのですが、2年に入り、コロナのせいで、オンライン授業になって、教員との接点が少なくなってしまった影響かも知れませんが、1年の時に比べて、自発的かつ自然な専門書の読書ができなくなってしまってきていると思うので、その問題を解決するためにどのようなことをすればいいかを日々、考えていたのですが、やっぱり、古典というものはいつも普遍的な解放を示唆するもので、何気なく読んでいた倉田百三の「学生と読書-いかに書を読むべきか」(著作権切れなので、kindleなどで無料で読めます)

の一つの文章をよんで大分、今の自分の問題の建設的な解決に希望が見えてきました。

 

その一文とは、次のようなもので、読んでいただきたいと思います。

 

「問い」こそ、自発的に読書への欲求を促すものである。

 

これは、一見、当たり前に見えますが、恥ずかしながら、自分自身は大きく見落としていました。なぜなら、理解したい対象は明確なのに、それらがどのようなものであるかについて、疑問を持ち続けてはいなかったからです。

 

 確かに、自分自身がその数学の対象に対して、疑問を持ち続け、かつ、それが役に立たないものでないならば、自発的な、自然な読書は、疑問の解消のために始まり、継続するはずです。

 言い換えれば、自発的な専門書の読書ができないならば、その内容について、それほど大きな疑問を持っていないということです。

 

 こういう意味で、多くの学問は積み重ねが肝要なので、具体的な疑問を持ち続けることをやめれば「試合終了」です。なぜなら、自発的、かつ自然な読書が始まらないからです。

 

 逆に、様々な社会的な動機、例えば大学や職場で、理解したい(する必要がある)事柄を含む専門書がある時に、その内容について、疑問を継続的に持ち続けるならば、人間が持ちうるあらゆる隙間時間において、自発的に書物を読み進められるので、月日が経つにつれて、自身の有益かつ有用な理解はどんどん積み重なっていくと思います。

 

 このように、社会的な動機は数あれど、何かを学び続けたい、あるいは、その必要がある人にとって、「疑問を持つのをやめたら、試合終了」といういくらかキャッチーな標語は(少なくとも自分には)役に立つのではないかと思う今日この頃です。