Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

「無償の愛」という名の障害(子育てについて)

 読んでくれている方、こんにちは。

 

 今日、ここで書きたいことは、子育て、教育において、「無償の愛」というものは、子供の社会的自立を大きく妨げ得るということ、についてです。

 

 はい、確かに、子育てにおいて、愛情や思いやりの欠如が子供の成長に与える悪影響は周知の通りですが、同様にして、愛情の過多、無償の愛、甘やかしというものも同様に、子供の成長に大きな障害を残しうるのです。

 

 ここでいう甘やかし、無償の愛とは、子供の積極的、能動的な努力なしに、親が援助しようとする態度のことです。

 

 なぜ、無償の愛が子供に大きな悪影響を与えるか?

 

 それは子供が成長し、親や家族以外の人間関係に接した時に、他人に無償の援助を期待してしまい、結果的に大きな失望を招くからです。  なぜなら、社会的な人間関係は、一般的に相互的な援助によって成立するものであり、無償の援助というものはほとんどありませんから、無償の援助を求めても、相手は至極真っ当な理由で断ることがあるからです。

 

 もちろん、子供は数学的な関数ではありません。無償の愛を持って甘やかしたからといって、子供が十分知的であれば、

「親が自分自身に与えてきた無償の愛(甘やかし)は社会的現実に即さないものであり、自分自身は相手に無償の援助を期待するのではなく、積極的に自分自身が、相手の仲間であることの証明をしなければならない」

 と考えることは可能でしょう。

 

 しかし、親が子供に与える影響が甚大であることもまた事実です。実際、個人心理学の提唱者であり、多くの神経症患者を診てきたアルフレッド・アドラーも、社会的適合に最も困難を持ちやすい三つのケースのうちの一つに「甘やかされた子供のライフスタイルを持つ人々」を挙げています。

 

 では、実際に甘やかされて育った人々が、「無償の愛」という障害を乗り越えて、社会に適合するためには、どのように考え、生きていけばいいのでしょうか?

 

 自分自身は、その問題の解決には「感謝」が重要なのだと思います。

 その理由は、「感謝」こそが「無償の愛」を根本的に否定するものだからです。

 なぜなら、相手が無条件に援助してくれるならば、感謝する必要もないし、逆に、感謝できるならば、無償の愛というものがないということを認めていないことと同然だからです。

 

 従って、他者の援助が当たり前ではないということを自分自身に自覚させるための有益な心理的なプロセスが感謝であるとも言えるので、それを失えば苦しくなるし、それがあれば、社会的適合は過度に困難なものではなくなると思います。そういう意味で、感謝というものは一見、他人のための言葉に思えますが、一番は自分自身のための、自分自身のためだけの言葉とも言えるかもしれません。

 

読んでくださり、ありがとうございます。