Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

有益に生きたいならば、どんな極悪人に対しても非難をしてはならない

 私たちの人生において、他人から理不尽な仕打ちを受けることはたびたびあり、それが私たちの有益な社会生活をより一層困難なものにしてしまうこと、その体験が絶えず私たちを苦しめているように感じることもあるが、私はその自分自身を苦しめた、あるいは苦しめているように感じる他者、あるいは彼らの行動がどんなに(社会的、あるいは客観的に)極悪なもので、最低に感じられるようなものであったとしても、私たちの有益な社会生活のために、彼らを非難せず、彼らが与えてくれた自分自身への恩恵に目を向けるように努力しなければならないということをいいたい。

 

 その理由は非常に端的に、自分自身の有益な社会生活と他者への非難は両立し得ないからだ。誰が他人を非難しながら、有益な社会生活を送ることが出来るだろうか?もし自分自身が有益な社会生活を送れているならば、他人を非難しようがない。なぜなら、自分自身が良い状態にいるのだから、他人を非難する必要も動機も根拠もないからだ。

 

 例えば、学校でいじめに遭い、他人への猜疑心を植え付けられた学生を考えてみよう。確かに、客観的に、社会的にはその学生がいじめっ子への非難の念を持つことは責められるべきものではないし、有益な社会生活を送ることを妨げる、より大きな困難を背負わせることを助長したという意味では、いじめっ子に一定の責任があることは確かであろう。しかし、いじめを受けた学生の尊厳、健康を考慮すれば、上に述べたように、彼の健康といじめっ子への非難は両立し得ない。それ故に、そこにどれだけの困難さが横たわっていようとも、いじめを受けた学生は社会的な健康さ、有益さを取り戻すために、そのいじめっ子を非難してはならない。もちろん、このことをいじめられた子供に安易に説得しようとすることは愚行であると言わざるを得ない。なぜなら、いじめを受けた当人は理不尽な、不公平な苦しみに苛まれているのであり、それに前向きに向き合うことには非常に多大な努力を要するからだ。

 

 このように、私たちが有益に、健康に生きていくことと他者への非難は両立し得ないのだから、どれだけ理不尽、不公平に感じることがあったとしても、他者への非難ではなく、感謝、貢献感を感じてもらおうとすることが有益さの根源にある。

 

読んでくれてありがとう。