Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

他人を真似せずに論理的に独立しよう

 私は周りの他人を模倣することが好きである。なぜなら、他人を模倣すれば、彼らを否定していないことを最も分かりやすい形で示すことができ、無用な争いや対立を生まずに済み、一言で言えば「楽」だからだ。

 しかし、他人の模倣はひと時の「快適さ」を提供してくれるが、しばしば、己の首を締める諸刃の刃となりうる。なぜなら、私たちが関わる他者は全体の人類のほんの少数に過ぎないとともに、そのような小さな共同体における共通認識が有益でないことがあるからだ。それは単に、私たちにとっての「有益さ」という概念が社会的に制限されたものであり、決して個人、あるいは少数の人々の快適さを基準としてつくられたものでないからだ。つまり、私たちが有益に生きるためには、社会全体を仮想的に想定に入れなければならない。例えば、個人が有益に生きたいならば、有益さという概念の社会性から、隣人の有益さも想定に入れなければならないし、広く言えば、一国の大統領は他国の利益をも考えてあらゆる政治的判断をくだす必要がある。

 そして、私たちが社会全体の人類と仮想的に対話する方法は「論理」である。なぜなら、人類全体の共通の思考方式が「論理」であるからである。

 このような意味で、私たちは他者と関わりつつ、彼らを模倣するのではなく、論理的に独立しながら協同をしなければならない。誰もが自分の意思決定を「模倣」という安易な手段に委ねず、「論理」という共通の思考方式に頼るべきなのである。ここでいう、論理に頼るということは正しさを支配的に振りかざすことではない。小さな共同体にのみ成立してしまうあらゆる偏見を取り払うことが目的であるからである。誰もが納得できる論理的なことによって、誰を支配することができるであろうか。支配に用いられがちなものは、むしろ論理的でない、慣習的、強権的、大衆的、宗教的な思想であると思う。

 このように、私たちが他人と関わろうとする上で、彼らと協同する必要があるが、その手段として、彼らをただ模倣することだけでは不十分であり、彼らを含む他者全体との協同を見据えた論理的に独立した判断が必要である。