Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

「楽しさ」だけを求めていては学問を究めることはできない。

 私は今、大学の数学科の一年生で数学を学ぶ喜びや楽しさを心底実感しているとともに、周りを見渡していても、学問を学ぶ喜び、楽しさが強調され、その喜びさえあれば、学問を極めることがあたかも容易であるかのように語られているように感じますが、本当にある学問を究めるためには、学ぶ喜びのみを追求するような学問の「娯楽的な」側面のみを強調するだけでは不十分なのではないでしょうか。

 

 娯楽的な側面を追求することの弊害は次のようなものであると私は思います。

 学問を究めることを目指す上で学問の「娯楽的な」側面を強調することが生みだす大きな弊害は、学ぶ側にとって、「学問の社会性」が無くなってしまうことであると思います。言い換えれば、学ぶ側にとって「学問」が社会的である意味が理解されないということであります。抽象的過ぎる気がするので具体的に言わせていただけば、学ぶ側が学問とゲームの違いを区別することが出来なくなってしまうことであります。

 それは、学ぶ側が喜びや楽しさのみを求めて、学問に接しているならば、ゲームが学問を修める努力よりも安易により大きな喜びを彼らに与えるならば、彼らが学問よりもゲームを選ぶべきでない理由がどこにも無くなってしまうからであります。

 これが学問を究める上で大きな弊害であることは容易に理解されるように思います。なぜなら、おそらく、学問を学ぶよりも「効率的な」娯楽は現代社会には溢れていますし、それらに目移りしていては到底、学問の深みに到達することができないからであります。

 

 では、学問を究めることを望む人はどの様にして、学問を学ぶ喜びと学問の社会性に関する理解を両立することが出来るのでしょうか。

 この問いの答えの一つは、人間の存続への根源的な欲求と学問の社会性が学問の社会への貢献と密接に関係しているということから、次のように与えられるように思います。

 

「 学問を学ぶ喜びと学問の社会性についての理解を両立するためには「学問の永遠性」を理解すればいい」と思います。

 私がここで言う「学問の永遠性」とは、学問が長い歴史を経て、数えきれない人々の血の滲むような努力をもってして現代に受け継がれているのは、学問が社会にとって有益、役に立ち得るものであり、私たちが創造する学問の発展は永遠なものになるということであります。

 娯楽に耽り、学問の社会性に興味を持たなかった人々は何も遺してはいないかもしれませんが、紀元前のギリシアの数学者Euclidの「原論」などといった学問の発展は今も失われずに大切に継承されています。

 このような「学問の永遠性」についての理解が学ぶ側の喜びと学問の社会性を両立させることはもはや明らかであると思います。なぜなら、学問の永遠性を求めれば、自然と学問の社会性に結びつきますし、学問の永遠性を求めることは人間の根源的な存続への欲求に合致し、喜びや楽しさを生むからであります。

 

 読んでいただき、感謝します。