Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

疲れた時の微妙な瞬間

 読んでくださっているみなさん、こんばんは。

 

 突然ですが、まだ仕事が残っているけれど、疲労のせいで、残りの仕事をすべて終わらせられそうもないけれど、爆睡する程も疲れていないような微妙な瞬間ってありませんか。

 

 自分は結構そういう瞬間が午後9時から12時くらいにたまーに訪れるのです。

 そして、怠慢な性分が現れて、どうでもいいことに貴重な時間を費やしてしまったりするのです。

 海外ドラマを見てゲームをした後に、脳裏に隠れていた残りの仕事が顔を出すと、「ああ、少しでもやっておけば」と考えてしまいます。

 

 そのような思考プロセスを幾度繰り返したことでしょうか!

 

 ついに自分は閃いたのです。

 多少疲れていて、でも眠れるほどでない微妙な瞬間に残りの仕事に手をつけられるような

 やる気の出し方を。

 

 それは、仕事を大きなタスクとみなすのではなく、超小さなタスクが連続的につながったものとみなすことです!

 

 これを自分が実践すると、今までは

疲れた

→でも眠れるほどじゃない

→何かはできそう

→でも残りの(大きな)仕事ができるほどじゃない

→どうでもいいことに時間を使う

→落ち込む

という流れだったのが、

疲れた

→でも眠れるほどじゃない

→何かはできそう

→残りの仕事(小さなタスクが連なっているもの)のこの部分ならできそう

→ちょっとやる

→満足

 

というちょっとの改善を自分の生活に起こすことができたのです!

 

とは言っても、ちょっとやるだけじゃ次の日が大変なんですけどね。

それはまた別の話。

 

 

 

勉強習慣がどうしてもつかない自分の対策

 自分は今、全くと言って良いほど、必要なのにも関わらず、勉強習慣がついておらず、いろいろ試行錯誤しているのですが、やっとうまくいきそうな方法が見つかりました。

 それを書いてみたいと思います。

 

 その方法とは、「教科書とノートをとってきて、机に座って、教科書とノートを広げる」という動作を100回繰り返すというものです。

 

 この方法が有効であると思う大きな理由は、自分は勉強自体は嫌いではないのですが、なぜか始めることが難しかったりするので、勉強をする訓練よりもまず、「勉強を始める訓練」が足りていないのだと思ったからです。

 

 例えば、靴を履くことが難しいことであったら、多くの人が外に出ることを習慣にすることは難しいと思います。 なぜなら、外に出るための初めの段階で大きなハードルがあるからです。 ここで、靴をはく訓練から始めるのは、一見、遠回りに見えるかもしれないですが、毎日、その行動を始めやすくなるので、習慣化のためには良い気がします。

 

 このように、もし勉強は別に嫌いではないのだけれど、勉強をする習慣がつきにくいと思っている方はもしかすれば、勉強を始める動作をひたすら繰り返すと、抵抗が減って習慣化に役立つかもしれないです。

 

参考になれば嬉しいです

 

 

誰でも自分のことを殺せるという事実

  前回の内容は現実を理解すればするほど、快楽が得られやすいという話だったのですが

役に立ちやすい知識と役に立ちにくい知識というものがあると思います。

 

 例えば、数学で鍛えた論理的思考力が役に立つとは書きましたが、公式や定理など数学的な結果は実際に役に立つ確率は一般に低いと思います。あくまで実社会生活での話ですが。。

 

 ここで、自分が書きたいことは個人的に役に立ちやすいけれど、あまり意識されていないのではないかなと思う事実です。

 

 それは「誰でもその気になれば、自分のことを殺すことができる」という事実です。

 

 「そんなことはないよ」という人はよく考えてみてください。

 

 ほとんどの人は頻繁に家から出ると思いますが、外で歩いているときに後ろからバットで殴られれば人は結構簡単に死にます。外に出なかったとしても、周到に準備した上で放火などをされて、家から追い出されることはあるかもしれません。

 いくらでも方法は思いつくと思いますが、このように、他人が自分を本気で殺してやろうと決心したならば、大抵の人は死んでしまうのです。

 

 もちろん、でもそんなことは滅多に起きないじゃないかという人もいると思いますが、

「誰でもその気になれば、自分のことを殺すことができる」ということは事実でしょう。

 

では、これを理解することがどうして社会生活で役に立つのかということを言いたいと思います。。

 

 それは社会生活で非常に重要なのは当然、「様々な他人と協同する能力」だったりするのですが、

 どんな人でも自分を殺そうと思えば殺せるのだぞという事実を理解すれば、

 どんな人を相手にしても、しっかりと配慮して行動することができるからです

 

 それによって、相手は「軽んじられていない」と実感するので、一緒に仕事したいとか、支援してあげたいと思ってもらいやすくなったりします。

 

 このような考えが極端だと思いになる人もいるでしょう。でも、事実をもとに考えているので、誰にも否定することはできないはずです。

 なので、自分は事実に従っているだけだと考えれば、余計な迷いは減ったりするかもですね。。

 

 

 

 

快楽主義者こそ勉強が大切

 自分ははっきり言って快楽主義者です。

 

 大変なことよりも気持ちが良いことを優先してしまうのですが、それで困ったことはあまりありません。

 

 でも、親や先生は

「勉強は辛いし、大変だ」 

だから

「快楽を求めると勉強しなくなってしまう」

と考えていると思うのですが、このような考えは間違っていると思います。

 

 なぜなら、快楽を求めるならば、現実を理解するための勉強は不可欠だからです。

 

 それは単に現実の様々な知識や論理を誤解すると余計な不安や失望が増えるからです。

 

 例えば、数学を勉強することは快楽を得るためには役に立つと思います。なぜなら、そこにおける緻密な論理的な筋道を辿ったり、考える訓練は社会的な構造を論理的に理解するための練習になったりするからです。

 

 このように、「勉強=大変」ではなく「勉強=快楽」という考えをもっと広めれば、勉強嫌いの人の悩みが半分くらい減るのではないかと思うこの頃です。

 

 

自己教育において大切な二つのこと

 大学生のおいらは自己教育が苦手なので、自己教育のために大切な二つのことを思いついたので書きたいと思います。暇な人は読んでくださいー。。

 

 まず、自分も含め日本の学生は自己教育がしにくいような環境にあると思います。

 

 なぜなら、皮肉なことなんですが、大人たちが社会のために、誰でも教育が受けられるように、オンラインで大学の授業を無料で受けられるようにしたりなど、教育の機会を得るためのハードルをどんどん下げていることによって、

今の先進国の学生は、教育を受けられることが当たり前」であると感じやすい環境にあり、勉強できる、教育を受けられることのありがたみを理解しにくい環境にあるからです。。

 

 ましてや、義務教育においては、勉強を半ば教師に強制されるのですから、勉強できるありがたみを理解しにくくなることは当たり前のことです。

 

 しかし、UNESCOによれば2017の時点で就学年齢に達していながら学校教育を受けられないような子供の割合が世界全体で11.5%もあるようなので、教育を受けられる機会を増やしていくことが大切であることは言うまでもないことなのですが、おいらが言いたいのは、子供、学生が教育を受ける機会を活かせるかどうかが彼らの精神的な姿勢に大きく依存すると言うことなのです。

news.un.org

 

 したがって、まとめると自己教育には次の二つが大切だってことになります。

 

1.教育を受ける機会を得られること

2.学ぶ側が教育を受けられる有り難みを理解すること

 

 ここで、先進国の子供には1の側面が満たされているのですが、2が満たされていないに対し、発展途上国などの教育を受けることが難しい子供にとっては1が満たされていないのですが、2は満たされているってことですね。

 

 おいらは(幸運なことに?)先進国である日本の学生なので、パソコンも使えて1が満たされているのですが、教育を受けるためのハードルの低さゆえに、2を保つことが難しかったりするので、

自己教育のための自分の課題は「教育を受けられることが当たり前でなく、ありがたいことであると理解すること」になるってことですね。

 

 きっと自己教育がうまくいかなくなる時は1か2が足りてないので、どちらも両立できるようにやっていきたいと 思います。。

 

読んでくださり、ありがとうございます。

 

「早くに苦しんで頑張れば、後が楽だ」というような考えはそろそろ捨てませんか?

 おいらの周りには、「早くに苦しんで頑張れば、あとが楽だ」というふうに考える人が多い気がするのですが、自分はこのような考え方は良くないと思ったりします。

 

 おいらがそのように考えることがよくないと考える根拠は、

人が現在にしか生きることができないのにも関わらず、現在の精神的な健康を捨てて、体験することができない未来の幸福を期待してしまっているという、よく考えればおかしなことをしてしまっているからです。。

 (もちろん、長期的な目標を達成するための現在という過程を楽しめていれば、全然おかしくないと思いますが、そこで目標達成の喜びのために苦しむべきだという考え方は良くないと思います。)

 

 例えば、あるプログラマーが「プログラマースキルアップをやめたら試合終了」ということを言っていたりするのですが、これがその通りであるとすると、

「早くに苦しんで頑張れば、あとが楽である」という考え方を持っていると、プログラマーは却って大変だと思いませんか??

 

 でも、プログラマーに限らず、どんな職業であれ、これをすれば後はずっと楽であるということはないと思います。

 また、たとえ何十億という資産を築いたとしても、人生の問題は金銭的な問題だけではないので、その資産ゆえに、周りの人が信頼できなくなったり、完全に楽な状態にはならないと思います。

 

 このように、早くに苦めば、後で楽できるという考え方はよく言われたりしますが、実は結構非現実的だったりします。

 

 したがって、人間は社会的な生き物なので、長期的な計画の遂行を要求されたりして、それをやる必要があったりしますが、

 上のプログラマーの例のように、「今は苦しい。でも未来は明るい」という考え方はちょっとおかしいので、

その長期的な計画のための行動であっても、精神的な健康のためには現在の自分自身の行動に喜びを感じる必要があります。

 

 もちろん、周りは未来の「結果」だけを求めるでしょうが、そのためにはまず精神的な健康を維持することが不可欠であると自分に言い聞かせて、現在の行動を楽しむようにするべきです。

 

 基本は生きている限り問題は出てくるので、「何もせずに」楽になる状態にはなりません。よって、大切なのはやる必要のある行動を今だけ楽しんでやることではないでしょうか。

 

 

 

読んでくれて、ありがとうございます。

勉強を習慣化しやすくするための仕組みづくり

 私はランニングを毎日することは苦にならないし、習慣化できているつもりだけれど、私自身の習得したいもののための(スキルアップのための)勉強は習慣化できていない気がします。。

 もちろん、したい勉強ではあるから、気分が乗った時にはやるのだけれど、運動と同じように継続的にできているかと問われれば、少し「??」が頭の中を踊ります。

 

 そこで、習慣化できている運動と習慣化できていないスキルアップのための勉強との大きな違いを考えてみましたよっと。暇な人は読んでくださいー。

 

 おいらが考える運動と勉強との大きな違いは、「生活の質への繋がり易さ」だと思います。。

 

 例えば、ランニングを継続すれば、体が軽くなったり、気分が良くなったり、実生活への直接的な影響が見えやすいのですが、それに比べて、勉強は継続しても、知識が増えたり、脳の思考力や記憶力が成長することはあっても、日常生活への影響が見えにくいですよね。

 

 もちろん、勉強を継続すれば、専門的にできることが増えるので、それを仕事にできたりと長期的に実生活へ影響を与えていくと思いますが、短期的にそのような結果を期待するのは難しかったりしますよね。

 

 したがって、長期的にメリットがでかいスキルアップのための勉強を習慣化するための方法は二つあって、

それは

A.常に先のことをしっかり考えて、行動すること

B.短期的に結果が見えるような仕組みを作る

 

 もちろん、おいらはAを常にやることができませんので、基本的にBパターンを選ぶしかないのです。(もちろんAもできるときにやります)

 

 自分にとっての「短期」とは1日から長くて1週間程度を指すので、そのような期間で結果が見え続けるような仕組みを作りたいと思います。もちろん、これは長期的な目線で行動することを捨てるということでなく、常に長い目を持っていなくても、学びを継続できるようにすることが目的ですー。

 

 その仕組み作りのやり方は色々とあると思うのですが、とりあえず、自分はすぐに実生活に影響が出やすい瞑想のやり方を勉強に応用したいと思います。

www.healthline.com

 

 

 読んでくれてありがとうございます。