Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

他人と関わらずに健康を維持する方法は存在しない

 読んでくださっている方、こんにちは。

 

 今日書きたいことは、「他人と関わらずに健康を維持する方法は存在しない」ということです。

 もしかすれば、他人と積極的に関わろうとしなくても、食事に気をつけたり、運動に気をつけたりすることによって、肉体的な健康は維持することができるかもしれません。

 

 それでも、健康という概念が社会的であり、辞書通りに言えば、「社会的に調和した状態」を健康というのですから、いかに肉体的に健康で、知能が高くても、それを他人にいい影響を与えるように活かすことができなければ、その人が健康であるとは言えないと思います。

 

 極端な例を挙げれば、今の時代で、非道な独裁者の代名詞であるようなヒトラー(やムッソリーニ)はベジタリアンであったりと肉体的な健康のために努力していたという史実がある様ですが、彼らが本当の意味で「健康的な」人間だったという人はおよそ存在しないと思います。

 

 では、私たちは孤独に、他人とあまり関わらずに、健康的に生きることは不可能なのでしょうか? はい、不可能です。社会、他者に積極的に、いい影響、貢献を与えているならば、その限りではありませんが。

 

 では社会、他者にいい影響、貢献を与えるということはどういうことなのでしょうか?自分も知りたいくらいですが、自然に考えれば、やはり他者にとっても「社会との関わりが健康のためのかなめ」なのですから、他者がもっと社会的に生きる能力があるということを理解できる様に行動することが、他者にいい影響、貢献を与えるということになるのだと思っています。

  例えば、他者に貢献するという名目で他者になんでも与える態度も、他者からなんでも奪う態度も、他者の社会生活を妨げるので、他人の健康につながらず、延いては、自分の健康にもつながらないと思います。

 

 まあ、とにかく、自分個人の健康を維持するためには、他人との(上でいうところの)良い関わりを積極的に持つ必要があるということですね。

 

 読んでくださり、どうもありがとうございます。

  

 

Thankfulness is relative thing.

I want to explain that thankfulness is relative thing and it means we can create the emotion by our inner efforts.

 

Why is thankfulness relative and comparative?

 

Because the emotion can be changed and depends on our standards that we choose.

 

For example, a textbook can make us grateful if we focus on children who can’t have compulsory education in a developing country and it can’t make us grateful if we focus on the environment that everyone can be educated as a matter of course.

 

It means thankfulness is not spontaneous and absolute. 

We may not need to think about the inner standards if we are in a favorable situation. However, difficult situations sometimes help us have useless emotions like jealousy, hurry, grudge , despair , suicidal thoughts and so on, then we perhaps should make efforts to change the standards in order to make us thankful. (Thankfulness is always useful emotion because the emotion help us contribute to our social environments.)

 

Thank you for reading!!

「無償の愛」という名の障害(子育てについて)

 読んでくれている方、こんにちは。

 

 今日、ここで書きたいことは、子育て、教育において、「無償の愛」というものは、子供の社会的自立を大きく妨げ得るということ、についてです。

 

 はい、確かに、子育てにおいて、愛情や思いやりの欠如が子供の成長に与える悪影響は周知の通りですが、同様にして、愛情の過多、無償の愛、甘やかしというものも同様に、子供の成長に大きな障害を残しうるのです。

 

 ここでいう甘やかし、無償の愛とは、子供の積極的、能動的な努力なしに、親が援助しようとする態度のことです。

 

 なぜ、無償の愛が子供に大きな悪影響を与えるか?

 

 それは子供が成長し、親や家族以外の人間関係に接した時に、他人に無償の援助を期待してしまい、結果的に大きな失望を招くからです。  なぜなら、社会的な人間関係は、一般的に相互的な援助によって成立するものであり、無償の援助というものはほとんどありませんから、無償の援助を求めても、相手は至極真っ当な理由で断ることがあるからです。

 

 もちろん、子供は数学的な関数ではありません。無償の愛を持って甘やかしたからといって、子供が十分知的であれば、

「親が自分自身に与えてきた無償の愛(甘やかし)は社会的現実に即さないものであり、自分自身は相手に無償の援助を期待するのではなく、積極的に自分自身が、相手の仲間であることの証明をしなければならない」

 と考えることは可能でしょう。

 

 しかし、親が子供に与える影響が甚大であることもまた事実です。実際、個人心理学の提唱者であり、多くの神経症患者を診てきたアルフレッド・アドラーも、社会的適合に最も困難を持ちやすい三つのケースのうちの一つに「甘やかされた子供のライフスタイルを持つ人々」を挙げています。

 

 では、実際に甘やかされて育った人々が、「無償の愛」という障害を乗り越えて、社会に適合するためには、どのように考え、生きていけばいいのでしょうか?

 

 自分自身は、その問題の解決には「感謝」が重要なのだと思います。

 その理由は、「感謝」こそが「無償の愛」を根本的に否定するものだからです。

 なぜなら、相手が無条件に援助してくれるならば、感謝する必要もないし、逆に、感謝できるならば、無償の愛というものがないということを認めていないことと同然だからです。

 

 従って、他者の援助が当たり前ではないということを自分自身に自覚させるための有益な心理的なプロセスが感謝であるとも言えるので、それを失えば苦しくなるし、それがあれば、社会的適合は過度に困難なものではなくなると思います。そういう意味で、感謝というものは一見、他人のための言葉に思えますが、一番は自分自身のための、自分自身のためだけの言葉とも言えるかもしれません。

 

読んでくださり、ありがとうございます。

 

 

「具体的な問い」を持つのをやめたら、試合終了

 自分は都内大学の数学科の学部2年の学生で、大学に入学することの主な動機が数学を学ぶことだったので、1年の時は割とよく勉強したのですが、2年に入り、コロナのせいで、オンライン授業になって、教員との接点が少なくなってしまった影響かも知れませんが、1年の時に比べて、自発的かつ自然な専門書の読書ができなくなってしまってきていると思うので、その問題を解決するためにどのようなことをすればいいかを日々、考えていたのですが、やっぱり、古典というものはいつも普遍的な解放を示唆するもので、何気なく読んでいた倉田百三の「学生と読書-いかに書を読むべきか」(著作権切れなので、kindleなどで無料で読めます)

の一つの文章をよんで大分、今の自分の問題の建設的な解決に希望が見えてきました。

 

その一文とは、次のようなもので、読んでいただきたいと思います。

 

「問い」こそ、自発的に読書への欲求を促すものである。

 

これは、一見、当たり前に見えますが、恥ずかしながら、自分自身は大きく見落としていました。なぜなら、理解したい対象は明確なのに、それらがどのようなものであるかについて、疑問を持ち続けてはいなかったからです。

 

 確かに、自分自身がその数学の対象に対して、疑問を持ち続け、かつ、それが役に立たないものでないならば、自発的な、自然な読書は、疑問の解消のために始まり、継続するはずです。

 言い換えれば、自発的な専門書の読書ができないならば、その内容について、それほど大きな疑問を持っていないということです。

 

 こういう意味で、多くの学問は積み重ねが肝要なので、具体的な疑問を持ち続けることをやめれば「試合終了」です。なぜなら、自発的、かつ自然な読書が始まらないからです。

 

 逆に、様々な社会的な動機、例えば大学や職場で、理解したい(する必要がある)事柄を含む専門書がある時に、その内容について、疑問を継続的に持ち続けるならば、人間が持ちうるあらゆる隙間時間において、自発的に書物を読み進められるので、月日が経つにつれて、自身の有益かつ有用な理解はどんどん積み重なっていくと思います。

 

 このように、社会的な動機は数あれど、何かを学び続けたい、あるいは、その必要がある人にとって、「疑問を持つのをやめたら、試合終了」といういくらかキャッチーな標語は(少なくとも自分には)役に立つのではないかと思う今日この頃です。

 

教科書の読み方についての悩み

みなさん、こんばんは。

 

私の今の状況はこんな感じです。↓

 

  1. 数学の教科書、テキストを論理的にフォローする時間はあるが、しっかりと論理的に表現して(←理解の証拠)、復習する時間がありそうもない。
  2. 従って、いくら読んでも、理解が積み上がらないので、次に読む時に、重要な定義や定理が頭から抜けていて、読めないか、読めても浅い理解になってしまう。
  3. 従って、しっかりと書いたり、話したりすることによって、論理的表現をすることで復習をするための時間をとるか、より効率的な方法を考える必要がある。
  4. ここで、毎週、締め切りがある数学の課題が出るので、あまり多くのまとまった時間が取れる自信がない。
  5. 従って、より効率的に数学の教科書を復習する方法を考える必要がある。
  6. しかし、効率を求めて、復習の意味をなさなくなれば、本末転倒なので、従来の方法(教科書の内容を出来るだけ初めから、教科書通りに書き出す)に含まれる省いてもいい要素を考える
  7. それは、1.教科書と全く同じ言い回しをして復習すること,2.書き出せる自信のある、すでに何回も書き下した定理の証明などは省いても大きな問題にならないと思う。(重要なのは、初めから論理的に一貫して復習をすることと、定義や定理の証明をしっかりと書き下せるようにすることだから。)
  8. 従って、新しい教科書の復習方法は次のようなものが考えられる。

 

  1. 教科書の余白、難しいなら、紙を用意する。
  2. 初めから、既読の教科書の重要な定義や定理、その証明、あるいは骨格を書き出していく。ここで、すでに何度も書き下しているものは省いてもいいが、書き下すかどうかは必ず考えて復習すること。(もちろん、効果を出すために教科書はできるだけみないようにする)
  3. 余白に書き込んでいるときは、消すか、新しいテキストを印刷する。
  4. 教科書の未読の内容を読み始める。

これでちょっと頑張ってみようと思います。

 

みんなに褒められても、自分に能力がないと思った方が、能力は発展する。

 読んでくださっている皆さん、こんばんは。

  今日、自分が書きたいことは、

 「自分に能力がない」と思わなければ、社会に要求される能力の発展は終わってしまうということです。

 

 つまり、ある程度、平均以上に頑張れば、平均以上の能力は得られるのですが、そこで他人から「能力がある」と言われれたとしても、自分には「能力がない」と思わなければ、社会的に要求される能力の発展は終わってしまうということです。

 

 その理由は、単純に、自分に能力があると思っている人は、自分の能力を伸ばすための特別な努力をする必要がないからです。

 

 従って、社会には課題が尽きず、常に有能な人に、より能力を発展させる事を要求しているのですが、それに応えていくためには、どれだけ自分が、自分の周りの人よりも優れているように見えようとも、自分に能力がないと思うことが不可欠なのです。

 

 よって、自分にとって、「自分に能力がない」という自覚は、他人との比較による感想ではなく、さらなる能力を伸ばすための努力をするために必要な哲学と言ってもいいかも知れないです。

 

 読んでくれた人がいてくれたら嬉しいです。

 

 

 

好きな勉強の継続のコツ(目標が高い人向け)

 

 読んでくださっている皆さん、こんばんは。

 

 今日、自分が書きたいのは、勉強の継続のコツについてです。

 

 ただし、ただのコツではありません。

 

 好きな勉強の継続のコツです。

 

 好きな勉強なら自然と継続できるよっていう継続上手な方はどうぞお帰りください。

 

 私のような好きな勉強なのに、時間が無かったりして、継続できないよーっていう人が読むと参考になるかも知れません。

 

 さて、好きな勉強なのに継続できない理由を考えてみたのですが、大きく分けて二つの理由があると思います。

 

 それは、

1.時間がないから

2.時間はあるけど、状況が整っていないから

の二つです。

 

 ここで2は取り扱わずに、1だけ考えようと思います。

 

 私が考える1の解決方法は、ずばり、「勉強の最小単位」を作ることです。

 

 最小単位という言葉がわかりにくく感じられると思いますが、言い換えれば、時間がほとんどかからないけれど、効果がある勉強ということです。

 

 例1

英語の勉強が好きで、継続したいけれど、時間がなくてできない時は、

「新しい(または、忘れかけている)英単語を一つ、書取りして覚えること」

を英語の勉強の最小単位にしてみれば、

一つの英単語を覚えるための書取りには、おそらく、1分あれば足りるので、

1分の隙間時間さえ見つけることができれば、時間がなくて、英語の勉強ができないという状況が解消されることになります。

 

 例2

 数学の勉強が好きで、継続したいけれど、時間がなくてできない時は、

 「忘れかけている数学の概念の定義を書き取って、復習すること」

または、

 「忘れかけている定理の証明の骨格を書くこと」

 を数学の勉強の最小単位にすれば、それができるだけの少しの時間を見つければ、時間が足りなくて、勉強ができないという状況は解消されます。

 

 ここで、私が重要であると思うポイントは、「最小単位」として定める勉強を、ちゃんとOutputのあるものにすることであるということです。

 例えば、例1において、新しい英単語を一つ「見るだけ」などにすれば、outputが伴っていないので、同時にinputもされにくいので、あまり効果はないと思います。

 従って、書き取ること、声に出すことなど、勉強の「最小単位」にもoutputを付随させる必要があると思います。

 

 参考になれば嬉しく思います。