Daikiの哲学日記

 当たり前だけど、大切なことを見落とさないように、文章を書いています。

真の快楽主義者は社会的な関心を持っている

 「快楽を求めるのは良くない。苦労こそ美徳だ」

とか「苦労は買ってでもしろ」

とか「楽な方を選ぶな」

とよく言われますが、自分はこの言い方は金言としては正しいけれど、誤解を招くと思っています。

 なぜなら、その言い方はあたかも、(社会的に)素晴らしい人生を送ると楽ができないように誤解させるからです。

 

 何が言いたいかと言うと、自分の理想論としては、個人の社会的貢献は「正しいから、きついけどやる」ものではなく、「正しいかどうか以前に楽しいからやる」ものであると考えるべきであると思っています。

 その理由は、「正しさ」についての金言は本当に苦しんでいる人に対しては何の役にも立たないことがあるからです。

 

 例えば、いじめにあったり、虐待されたりと自分が泣いて悲しむのを他者に爆笑され続けてきたような人が反社会的な思想を持っても誰も驚きませんが、彼らに「それは正しくないよ」と伝えてあげたところで何の効果もありはしない、ただの苦しみを知らない人の、自分は正しいと言いたい人の戯言にしか聞けないでしょう。

 なぜなら、彼らは社会的に有益な方向、正しい方向にすすべきであることは百も承知で、「自分を攻撃してきた他者に関心を持って貢献すること」が非常に困難であると言うことが本当の問題であると認識しているからです。

 

 つまり、甘やかされたり、ネグレクトを受けたり、肉体的な障害があったりと、他者への関心を持つことが比較的困難な人たちが「正しさ」を求めて社会的に無益な方向から、社会的に有益な方向に進み直すことは無理で、そういう人たちに「正しさ」について説教しても意味がありません。

 したがって、本当に困難な状況において身を助くのは、楽を否定して正しさを求める考え方ではなく、正しさを否定して楽を求める考え方です。

 

 では、本当に困難な状況に置かれた時に、社会的に無益な方向に向かわないようにするためには、社会的に有益なことをすること、つまり、社会貢献することが「楽」であるということを理解する必要があるということがわかるので、それを考えたいと思います。

 

 社会的関心を持つと楽になるという考えは次のように論理で正当化できます。

 

個人が社会的関心を持つ

社会的関心を持っていない時に比べて、社会的でない、つまり、利己的な自分自身の感覚への関心が減る

個人的な感覚への関心が減るので、個人的な快楽も減るけれど、苦痛も減る。

したがって、社会的関心を持って行動すれば、社会的環境は向上するので、個人的な苦痛を減らしながら、社会的な快楽を感じる

 

これをまとめれば、社会的関心をもてば、楽に生きれるということになる。

「苦労は買ってでもしろ」とかいう言葉は個人的な快楽を減らす目的で言われることだと思うのですが、前述のように、本当に苦しんでいる人に苦労や正しさを求めるのは無意味なので、より汎用性があって役立つ考え方は、社会的関心をもてば楽に生きられるというものだと思っています。