普通でなくても役に立てばいい
私は、私たちが社会的に有益に生きるために、周りの人々と同じように、周りの人々の平均をとって生きることをことさら意識して生きるべきでないと確信する。言い換えれば、周りの人と同じようにしていないことに不安を持つべきでないと思う。
その理由は、役に立つか、有益であるかどうかが重要なのであって、本質的には、周りの人々に合わせた言動をすることが社会的に役に立つかどうかは分からないからだ。つまり、周りと同じでないことに不安を持つのではなく、社会的に役に立たない言動をしていないかどうかに不安を持つべきだからだ。
例えば、もし周りの人々と同様に行動することが社会的な善であるとすれば、そもそも社会的な安定的発展を支える「分業」はそもそも成立しないだろう。なぜなら、「分業」を成り立たせるためには、諸個人の互いに異なった能力の「偏り」がなければなくてはならないからだ。だからこそ、もし彼らが社会的貢献を目指すならば、アスリートに数学的素養が無くとも大きな問題はないし、同様に数学者が運動を苦手としていても大きな問題はない。
このように、私たちが様々な面で「偏り」を持っていたとしても、その偏りを他者と比較して無くそうとするような強迫観念は全く必要なく、むしろ、その偏りを社会的に補償できるぐらいの社会的貢献をする努力をすることが重要であると思う。
そして、そのような人々が本質的に普通の人間だと思う。
読んでくれてありがとう。