人間の幸福は客観的な状況では判断出来ない。
よく
「自分がお金持ちだったらなあ」とか
「この職業につけたら幸せなのになあ」とかいう人がいますが、本当かなあと自分は思ってしまいます。
結局、「〇〇だったら」と理想を口にする人は
〇〇という客観的なものに幸せを見出していると思うのですが、
客観的な幸せなんて存在しないと思うからです。
例えば、土日に休めることが嬉しいのは休みがあることが当たり前でないからですよね。
毎日働かないことが当たり前の人にとって、「土日の休み」っていう客観的な状況が
働いている人と同じ様なものであるとは思えません。
つまり、「土日の休みが嬉しい」と思えるのは、それを当たり前にしない状況ありきだと思うんです。
美味しいものばかり食べていると質素なものは不味くなるっていうことと同じです。
このように人間の幸福は主観的な比較の問題で合って、客観的なものではないです。
このような意味で、他人になんて言われようが、質素に生きていれば何をしても楽しいのですが、人は舌を肥したがることが多いです。
個人的には、上に書いたように他人が関係ないので、喜びや快楽を追求していくこと自体は社会的にはあまり意味がないと思うのですが、
自分は社会的に有益なことを楽しんでやりたいという願望があるので、
その有益な行動よりも質素な行動をとることが大切なのかなあと思います。
例えば、仕事を休んでゴロゴロすることが楽なのは当たり前なんです。でも、自分にその仕事が必要なものならば、その仕事を楽しくやりたいじゃないですか。そのためにゴロゴロする楽しみを記憶してしまうのはよくないと思うんです。
そんな記憶を持ってしまえば、感覚は主観的、比較的なので、仕事が楽しくなくなるのは当たり前じゃないですか。
自分は社会にとって何が必要なのか、それを考えてみることは他人が関わる問題で客観的なのですが、
それを楽しく出来るかどうかは、
それをしないことで生まれる喜びを忘れるっていう超主観的な問題だと思うんです。
そういう意味で忘却する力って偉大な能力なんだなあと思ったりします。
例えば、あなたがランニングを習慣付けたいとしますよね。でもキツいと。この時は、ランニングをしないことで生まれる喜びを挙げてみてください。
例えば、ゴロゴロする喜び、肉体的な疲労がない喜び、家の中でゲームが出来る喜びとか。
ここら辺の喜びを忘れるように努めてください。その方法はお任せします。少しでもランニングをしないことで生まれる喜びを忘れられたなら、人間は自然と喜びがある方に向かうと勝手に思っているので、ランニングをする喜びに興味を持つと思います。
このように、客観的に〇〇がしたいということを考えるのは社会的に意味があるので、いいと思うのですが、それを楽しく出来るかどうかは
私たちの忘却力にかかっていると思っています。
〇〇が必要だけどつまらないなら、〇〇をしないことで生まれる喜びを忘れてみてください。