勉強しろ、働け という言葉の欺瞞
人は社会的な生き物なので、一定の共同体に属し、その共同体に貢献し続けなりません。
でも、その共同体からの自分自身への期待は時に精神的な負担になることがあります。自分自身の自由意志とは関係なしに物事が決められているように思えるからです。
例えば、いくら勉強することが自分のためになると理解していても、強権的に親や教師に命令されれば、嫌になりやすいと思います。
従って、共同体の有益な期待にストレスなしに応えるために考えたい問題は
「どうやって自分の自由意思を感じながら、社会の期待を満たし続けるか」ということになります。
この答えのひとつは「シンプルに」与えられます。
その答えとは、
自分が共同体の期待を満たすことによって生じる自分の利益を強調し、その機会に感謝することです。
例えば、上で見たような、勉強を強制されるような学生は概して勉強が有益なものに見え無くなってしまうと思いますが、この時に、学生が居場所を持つために勉強が必要なものならば、勉強によって生じる自分への利益を強調し、感謝するべきだと思います。
もちろん、その共同体に居場所を求めていないならば、そのように考える必要はないのですが、居場所を求めているならば、ストレスなしに適応したいですねっていう話です。
参考になれば嬉しいです。